「ここにもあったよ! ふるさと上鷺宮の万葉花だより(桑編)」No.43

♪夕焼け小焼けの赤とんぼ…山の畑の桑の実を小籠に摘んだは幻か 三木露風

誰でも歌ったことのある「赤とんぼ」の童謡。ここに登場するのが「桑」。桑は古来よりカイコの重要な餌。そして、蚕からもたらされる絹は東西の文化を橋渡ししたシルクロード等でもわかるように、時代、地域を問わず世界中の貴重品であったことは言うまでもない。白い小さな虫が世界の歴史を動かしたともいえるのかもしれない。世界の歴史を創造した蚕と、その重要な餌の桑と、そこから紡ぎ出された人類の宝物ともいえる絹。いち昆虫のあまりの影響力に驚く。そこで蚕を調べてみると5000年前から人類との関わりがあるようだ。唯一家畜された昆虫と言う。自然界の中では生きられないそうである。すぐに死んでしまう、と。ただ詳しいことはわかっていない。
話を桑に戻そう。初夏に実りキイチゴのように柔らかい小さな粒が集り、房状にまとまる。
昔、桑畑でほのかな甘みの桑の実を口に放り込み、口の周りを紫色にした記憶のある方も多くいらっしゃったのでは…。その桑畑も見られなくなったのはいつごろであろう。私の記憶では1970年代には周囲で見かけなくなったような気がする。私の勤務地(海老名)に相模国分寺址がある。その周囲に、この時期になると紫に色づいた桑の実がびっしりとなった。いつの間にか史蹟公園として整備されると共に桑の木々も消えてしまった。かつては蚕棚を屋根裏に造り、養蚕を生業とした農家も多くあったが、時代の波で消えていった。同時に桑畑も同じ道をたどる。何と養蚕が最盛期の昭和初期に日本の作付面積の1/4が桑畑の面積だったと言う。桑は時代の波をもろに受け消えつつある植物なのであろう。
ところで、この時期に大きな園芸店に行くと売っていた。桑が……しかも桑という名ではなくマルベリー。西洋ではこう呼ぶ。これも時代の波か…昨今では、葉を蚕が食すのではなく、人が実を食べる、ということで商品化され、どうやら桑は活路を見出したようである。めでたしめでたし。

「 生あたたかき 桑の実はむと 桑畑に幼き頃は よく遊びけり 」       佐藤佐太郎
    はむと=食むと

「 黒くまた赤し 桑の実 なつかしき 」                    高野素十

桑海(そうかい)の 涯(はて)に山あり 夕日あり               岸 善志

「 たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに願へば衣(きぬ)に 着るといふものを 」巻7-1357
 作者未詳
現代語訳:母が生業として育てている桑の木でさえも、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。)
どんなに困難なことでも一心に願えば成就するのに…私の恋は実らないと嘆く乙女。

《蚕、桑の一口知識》

古代、養蚕は重要な生業の1つで、蚕を育てて繭玉を作り、糸を紡いで衣を織る一連の作業はすべて女性の仕事とされていました。 以下は伊藤博氏の解説(万葉集釋注)、当時の女性の養蚕の様子を詳しく記しておられますので、全文をネットより引用させて戴きます。

『 養蚕は女の困難にして重要な生業であった。すぐれた桑を育てないと立派な蚕は出来ない。
幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとした張りのある葉を与えねばならない。
油断していると、蚕を好物としている蟻に食われてしまう。無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きがさざ波のように聞こえる。
桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。今でも、蚕を育てる人は、蚕のことを「お蚕さま」とよんでいる。
「お蚕さま」は成熟の極みに達すると「おヒキさま」になる。躰が少し曲がって透体を呈するのである。
これを拾って藁の床に寝かせてやると、かれらは糸を吐いて二、三日の間に繭となる。

だがヒキの拾いの時期を誤るとほれぼれする繭は期待できない。こうした難行の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。桑から繭へ、そして糸から衣へ― それは外目にも神秘な過程である。
が、当事者にとっては悲願にも似た祈りが常に込められている。
「 桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張をよくよく知る者の言葉に違いない。
その難行を我が恋の苦しさに譬えたところが新鮮である。この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに通じないのか。そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思えるがいかがであろう。 』

中國では桑は神木。西洋ではマルベリー

【戸引】