「ここにもあったよ! ふるさと上鷺宮の万葉花だより(馬酔木編)」No.48

馬酔木:枝葉に有毒成分があり、馬が食べると酔ったように足が萎え「脚じひ」と呼ばれ、「あしび」から「あせび」となった。漢字もその由来に基づいている。葉を煎じたものは殺虫剤に用いられることもある。毒部位は全株。近年では自然農薬として利用する試みがなされている。私事で申し訳ないが、京都、奈良が大好き。其の中で奈良公園を歩くと低木の群落を目にする。多くはこの馬酔木である。鹿たちは他の木の表皮は齧るが馬酔木は避ける。だから奈良公園には馬酔木の小さな森が繁茂したのであろう。ちなみに、この公園内には「囁きの小道」というロマンチックな名の付いた場所がある。それは馬酔木の群落の間の細い道を縫っていく小道。一度、この時期に訪れることをお勧めしたい。

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありとは いはじ 大伯皇女(おおくのひめみこ)
(岩のほとりに咲いている馬酔木の花を手折ってあなたに見せたいのに もうこの世には居ない)

この歌は悲しみに満ちたものである。大伯皇女の父は天武天皇、母は天智天皇の娘。君はその弟。
天武天皇が死去すると後妻の持統が天皇となり跡を継ぐ。そこで問題になるのが皇位継承。持統は体の弱い実の息子(草壁皇子)に跡を継がせたい。そこで大伯皇女の弟、文武両道に優れた大津皇子に謀反の疑いをかけ刑死させた、と伝えられる。その前後、大伯皇女は伊勢神社の斎宮(皇室の皇女が伊勢神社に仕える、という制度)となり、無念の最期を遂げた最愛の弟を偲ぶ歌を万葉集に何首も残る。そのうちに一首。

池水に 影さえ見えて 咲き匂う 馬酔木の花を 袖に扱(こぎ)入れな    大伴家持
(袖にそっと入れましょう)

わが背子に わが恋ふらくは 奥山の 馬酔木の花は 今、盛りなり     万葉集
現代語訳(あなたの事を恋しく思っている私の恋は、奥山に咲く馬酔木のように今、燃え上がっていることよ)

先に紹介した大伯皇女(おおくのひめみこ)の弟は非業の最期を遂げた大津皇子。彼の歌で私が大好きな歌がある。これは万葉集の相聞歌である。

「あしひきの 山の雫に 妹待つと 吾たち濡れぬ 山の雫に」  大津皇子
(夜露の山の雫の中で……ただひたすら愛するあなたの来るのを待っています。山の雫に濡れながら)

それに彼女が応えます。心憎い返歌です。これを返されたら男はイチコロですね。

「我(あ) を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山の雫に ならましものを」 石川郎女
(私をお待ちになっていて あなたが山の雫で濡れてしまった。その山の雫になってあなたを温めて差し上げたい)

実はこの二人の関係にも不吉な予感がするのです。何と持統天皇の最愛の息子、前出の草壁皇子が石川郎女に恋の歌を送っているのです。草壁の唯一の石川郎女に送った恋の歌が万葉集に載っています…しかし、草壁は片思いに終わったような。その後、大津は持統から謀反の疑いを懸けられて死を給う。草壁は皇位を継ぐことなく大津の死後、数年で病死。
この時代は日本古代史の最後の激動期だったのかもしれない。蘇我氏と物部氏の争いから不穏な時代が幕を開け、曽我氏の陰謀により聖徳太子一族の悲劇の滅亡。その専横を極めた蘇我氏が倒された乙巳の変(大化の改新)以降、壬申の乱、天武、持統の時代に皇位継承問題での皇子の何人かの悲劇が引き起こされ、その後、聖武天皇の時代からあたりからやっと安定期に向かう。天武、持統の時代の作が中心の万葉集。だから一番、人が人らしく、素朴で、何の躊躇もなく感情を爆発させる作風。しかも様々な階層の人の歌が万葉集に登場する。私はこの時代も好きだ。

【戸引】