「ここにもあったよ! ふるさと上鷺宮の花だより(月編)」No.50

 今回は「月」をテーマにしてみました。月ほど人類にとって身近で、神秘的で、日常生活にも密接に結び付いた星はないでしょう。日本古来より自然美を「花鳥風月」「雪月花」と評しています。このコーナーを「花だより」としていますが花以外で「雪」「風」の次に「月」に焦点を当ててみました。月は西洋でも東洋でも南米でもアフリカ大陸でも、あらゆる世界の神話等に登場しています。日本では「竹取物語」のかぐや姫が月の住人。その月に人類は1969年に到達したのですね。学生時代にNHK放送センターで中継を見た記憶があります。ロマンに満ちた月が、これを境に現実世界の存在になりました。

その月が一年で一番美しいとされる名月は長月の9月。月を見られる環境は、つい100年ほど前は、まさに漆黒の闇夜。だららこそ月明り、星明りという言葉が生まれたのですね。日本には古より月見、花見、雪見と季節の移ろいの美しさを愛でる文化がありました。特に秋月という語句もあるように古人は秋の月の美しさを格別としました。その自然を愛でる文学的源流は中国唐代の李白、杜甫等の詩人たちの影響も受けています。

花間一壷の酒 一人酌んで 相親しむ無し 盃を挙げて明月を迎え 影に対して三人となる…… (月下独酌)李白
(花咲く樹の間に座り一壷の酒を置き 一人酒。誰一人親しい相手がいない。盃を挙げ唯一の酒の相手の明月を迎える。そうか。今、自分と自分の影と月と三人になっている。さあ酒宴を始めよう)

なかなかおしゃれな感性ですね。約1300年前の唐の代表的な詩人です。日本でいえば奈良時代の人。このような自然を友とした視点は、当然、日本古典文学に影響を与えました。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠野山に 出し月かも 阿倍仲麻呂(唐にて故郷を偲ぶ)
(大空を遥かに仰ぎ見ると月が出ている。あれは懐かしいふるさと奈良の春日の三笠山で見ていた月と同じなんだなあ:遣唐使として唐へ。玄宗皇帝に気に入られついに帰国叶わず)

秋風に たなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ      右京大夫顕輔
(秋風に吹かれたなびいてゆく雲の切れ間から もれ出てくる月の光の何と澄み切ったことか)

弾く琴の 音のうちつけに月影を 秋の雪かと おどろかれつつ    紀貫之
(弾いてる 琴の音を聞いているうちに 月の光を秋の雪かと思って 驚いてしまいました)

虫の音も 月の光も 風の音も わが恋増すは 秋にぞありける    能因法師
(虫の音も、月の光も、風の音も 私のあなた様を恋する思いが募るのは秋のなせる業でしょうか)

天の海に雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ       柿本人麻呂(万葉集 1072)
(満天の空は海のよう。幾ばくかの雲は波のように見える。そこに月の船が星々の林に漕ぎ入りやがて移ろってゆく。何て壮大な夜空よ:素朴で雄大な私の好きな歌です)

木の間より 洩りくる月の 影見れば 心づくしの 秋は来にけり    古今和歌集191

行く末は 空も一つの 武蔵野に 草の原より 出づる月影     新古今和歌集422九条良経
(見渡すかぎり空と一つに交わるような広大な武蔵野の草原に今、月が登っていく:鷺宮あたりも当然、武蔵野でした。今を遡る事800年ほど前の情景です。)  [注]武蔵野の詳細は後述。

名月や 池を巡りて 夜もすがら     松尾芭蕉

年寄りや 月を見るにも ナムアミダ    小林一茶

あの枝を この木を切れと 月見かな   正岡子規

月を待ち 立待月と 言ふ名あり     高浜虚子

 このように見上げる夜空に広がる星々の中で月は格別の存在だったのですね。

 

[注] [1]因みに「行く末は 空も一つの…九条良経」の和歌に出てくる武蔵野とは?…
[2]武蔵野の範囲は?……                ウキペディアより

[1]人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林であったが、やがて焼き畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉樹林の二次林となり、牧(まき)と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたと言われている。武蔵野の名の成り立ちは「武蔵の国」で元来、武蔵国周辺の東人(あずまびと)達が自らの住む山野を指して呼んだものであった。「武蔵野」の名が初めて資料に現れるのは万葉集で第14巻「東歌」に彼らの詠んだ歌が残っている。

  平安時代11世紀に菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)の著した「更級日記」に…………「今は武蔵の國なりぬ(入った)。むらさき(白い花を咲かせる)生(お)ふ(繁茂する)と聞く野も、葦、荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中を分け行くに、竹芝(現港区三田にあった)といふ寺あり。

  室町時代初期14世紀に後深草院二条の「とはずかたり」に…

 「八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさ(おもむき)にこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の國へ帰りて、浅草と申す堂(浅草寺)あり。(中略)野の中をはるばると分け行くに萩、女郎花、荻、芒(すすき)よりほかは、混じるものなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、推し量るべし。三日にや分け行けど尽きもせず。

  可能ならばタイムスリップして、かの時代の武蔵野を馬で疾駆してみたいものです。

[2]武蔵野の範囲については明確な定義はない。

江戸後期の「江戸名所図会=1都3県の名所」では南は多摩川、北は荒川、東は隅田川、西は大岳、秩父根(高麗、入間、立川、八王子…)………

奈良時代から江戸時代までの「武蔵野」は、とてつもない範囲の総称であった事がわかる。

当然、近現代からは大規模開発により武蔵野の定義が大幅に変化していくのはご存知の通り。これには触れない。

【戸引】