今回は取り上げるのは「山吹」です。開花の季節は四月に入ってからあちらこちらで黄金色の花を咲かせます。山吹の名称の由来ですが、いくつの説があるので紹介します。
[1]山中に自生する花の色が蕗に似て金色で美しい。
[2]細い茎に咲く花々が山風に吹かれる様子から「山振り」
[3]春のなると黄色い花で山が埋め尽くされるところから「山春黄(やまはるき)」から転じた。と。
結構、名称の由来がありますね。山吹の種類には一重(五弁)、八重、白色があります。時代劇では小判や黄金のことを山吹色と確か言っていた記憶があります。町内どこでも確実に目にすることができますね。

 ところで、山吹と言えば1950年代前後の子供の頃のお祭りでのこと。「山吹鉄砲」です。買ってよく遊びました。山吹の茎の皮をむくと白い芯があります。それを乾かした物が弾です。白い芯を1cm位切り口の中に入れて湿らせ、鉄砲部の筒に押し込む。そして、木製の柄の先に少し長細い鉄の棒がはめ込まれたもので一気に押し込む。山吹の芯にその圧力がかかり「ポン」という軽い音がして、芯が5m位飛び出す。左のイラストがその原理で弾の部分に唾液で湿らせた1cm位の乾いた山吹の芯を押し込む…という子供の遊び道具でした。今とは違ってこのような単純な遊び道具で走り回ったものです。知っている方は60代以降の方でしょうか。
 すみません。話を元に戻しましょう。
 万葉花便りでした。二首と一句をご紹介します。

 桜散り 春の暮れゆく 物思ひ 忘れられぬべき 山吹の花     玉葉集 藤原俊成
 (桜が散り、春が暮れゆく中での憂鬱な思いも、忘れてしまいそうになるほど美しい山吹の花よ)

  まさに、桜が散る前後に咲き始める花です。俊成はその時期をみごとに詠み込んだのです。

 さあ、山吹と言えばこの人の登場でしょう。そうです。太田道灌です。太田道灌というと忘れてはならないのが中野区、練馬区、豊島区辺りを領地としていた平安時代からの名家の豊島氏との合戦です。1477年4月13日。主戦場は沼袋の哲学堂から野方、江古田付近にかけてでした。この時の戦いで豊島方が200騎前後の戦死者を出し《実は沼袋駅北方の新青梅街道沿い。沼袋に丸山塚公園(中野区障がい者福祉センター隣接)がありますが、この塚等に戦死者を葬りました。新青梅街道付近の7~8か所に明治時代までには戦死者を葬った塚があったようです。丸山塚と近くの塚から明治時代初期に道路拡張工事でリヤカー2~3台分の人骨、鎧、太刀の断片が見つかったそうです。》7km西方の豊島一族最後の居城石神井城に敗走。この後、道灌は沼袋の合戦から一週間と経たない18日に石神井公園の隣の三宝寺池にある石神井城を落城させ、平安時代からの名門の豊島氏が滅亡。豊島園も実は豊島城跡です。この前後の合戦で豊島城も道灌によって落城させられました。ハイドロポリスのある場所を中心に城が築かれていたようです。さらに哲学堂公園にはこの時の合戦の石碑が建っています。実は540年位前に豊島氏との戦いで道灌に協力した鷺宮の地元の早舩氏、早船氏。豊島氏の支族と言われる篠氏も、まさに、この合戦につながる一族、と区史には書かれています。
 太田道灌にまつわる郷土史に話題がそれてしまいましたので、本題の道灌と山吹に話を戻します。皆様がよくご存じの和歌をご紹介しましょう。

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)一つだに 無きぞ悲しき(あやしき=不思議だ)
後拾遺和歌集  兼明親王
現代語訳《八重の山吹が雨の中で美しく咲き誇っています。しかし、山吹に実が一つも生らないように貧しい私には蓑一つさえありません。悲しい境遇に成り果ててしまいました。》
(八重の山吹には実が生りません。その山吹の実と蓑を懸けた和歌です)

太田道灌

 この和歌は道灌とは切っても切れないものになりました。
自ら築城した旧江戸城から狩りに出かけた太田道灌。歌の舞台は今の神田川のほとりにある新宿区か豊島区。面影橋付近とも。突然の雨に会い近くにあった粗末な農家に雨宿りをするために入りました。そこにはうら若き女性が…道灌は雨をしのぐ蓑を求めました。そうすると彼女は庭に咲いていた山吹の一枝を悲しそうに何も言わずに差し出しました。道灌はこの行動に腹を立て農家を後にしました。江戸城に帰城し一息つくと周囲の近習に事の次第を語りました。一人の歌を嗜む家来が道灌の前に進み出で、次のように語りました。「殿。その娘はただ者ではありません。実は後拾遺和歌集に兼明親王様の和歌が載ってございます。その歌に七重八重花は咲けども山吹……娘はその歌を知っていて殿に山吹の一枝を捧げ、貧しさからご希望に添えない痛みと悲しみを機転の利いた和歌という方法で殿にお伝えしたのです」と。この近習も大した知識の持ち主。当時の貴族や学のある武将は有名な多くの和歌集を暗記しTPOに応じて使っていました。この娘もかつては都の下級貴族で、戦国時代前期の混乱に京も荒廃し始め、落ちぶれ関東に流れて来たのでしょう。この話を聞き道灌はいたく恥じ入り歌道に励んだ、ということです。

紅皿供養塔

 この話には不思議な後日談があります。後に、道灌はこの娘を歌の師として江戸城に招きます。しかし程なくして主家の上杉氏に裏切られ神奈川県の伊勢原で謀殺されます。その後、彼女は尼となり紅皿と名乗り、出会いの地付近で庵を建て人生を終えます。ところが信じられないことに紅皿の墓と伝わる場所から板碑(当時の人の供養碑)が近年発見されたのです(新宿区新宿6-21-11の大聖院)。板碑には1400年代の道灌が生きていた年代をあらわす文字と共に紅皿の名前が…とても不思議な話です。新宿区大久保の寺付近に紅皿の墓がひっそりと佇んでいます(新宿区史から)。さらに新宿の中央公園には道灌と山吹を捧げる紅皿が銅像で見られます。

 山吹、和歌、太田道灌から地元にまつわる話まで、とりとめの無い内容で失礼しました。
 ここで話題になった場所に一度いらしてみては……石碑や銅像等に触れられます。
 新宿の現都庁が建設される前の旧都庁の正面には太田道灌の像が建っていました。

最後に山吹にまつわる芭蕉の句
ほろほろと 山吹散るか 滝の音

【文・写真】戸引 一博